歴史

第1章:創業

地域のためのものづくり

1935年

技術習得に励む、創業初期の伝習生たち
地元で暮らす女性たちが、織り手として活躍

1934(昭和9)年、山形県・山辺の地に、当社の前身となる「ニッポン絨毯製造所」が設立されます。当時、東北を襲った冷害凶作による大不況に見舞われ、疲弊を極めていた地域経済の再生と振興、特に、働き口の少なかった若い女性たちが、安心して働ける清潔な仕事場をつくりたい・・・・・・。木綿織業を営んでいた創業者・渡辺順之助の切なる願いと決意でした。

翌1935(昭和10)年5月1日、北京より7名の緞通技術者を招聘し、当社を創業。2年2ヶ月に渡る伝習を経て、国内初となる羊毛を原料とした中国緞通の技術導入に成功しました。この地に住み暮らす人々の手によるじゅうたん、「山形緞通」が生まれた瞬間です。

  • [ 創業者、渡辺順之助 ]

    地域経済の再生のため、当時は奇想天外な仕事であったじゅうたん製造業を、20年の歳月をかけて基盤を確立する覚悟で創業。30代半ばで独学によって工房社屋を設計し、職人の制服を揃える等、地域への切なる想いと文化的な眼差しを持つ人物でした。

  • [ 中国人指導者たちと家族 ]

    北京より招いた7名の中国人指導者たちとの技術伝習は、話し言葉、書き言葉、いずれも通じぬ中、身振り手振りで意思疎通をする、大変な苦労がありました。指導者を先生と呼んで敬い、その家族を含めて、衣食住を最高待遇でもてなし、2年2ヶ月に及ぶ交流を図りました。

  • [ 今も変わらぬ、工房社屋 ]

    数多く設けられた窓は、ものづくりの場に、清潔な空気を巡らせるものとして。薄く染められたピンクの塗装は、地域の女性の働き場であるという意志を秘めて。創業者・渡辺順之助が設計した工房社屋は、今もその姿を変えず、受け継がれています。

第2章:黎明期

日本のじゅうたんを模索

1935年〜1945年

1940年代の工房風景
工房に保管されている当時の図案

技術導入と製品化を経て、「東北振興ニッポン絨毯製造所」へと社名変更。町内における工房施設と設備、生産体制の拡充を図ります。同時に、じゅうたんの図柄、デザインの視点においても、西洋や中国の模倣品ではない、日本の感性や美意識による表現を模索していきます。

創業メンバーの1人である絨毯商・佐野直吉は、高島屋で「現代大家創案支那段通展覧会」を開催。「純日本風たる緞通」をテーマに、藤田嗣治、ノエミ・レーモンド、鏑木清方、朝倉文夫、梅原龍三郎、前田青邨ら、錚々たる芸術家22名と緞通を製作いたしました。

また、1940年には、商工省の工芸指導顧問として初来日したデザイナー、シャルロット・ペリアンが工房を視察。翌年、同氏によって高島屋で開催された「選択・伝統・創造」展では、オリジナルの手織緞通を製作しました。

日本の風土を活かしたものづくり、モダンデザインとの接近を図った黎明期でしたが、刻々と激しさを増す第二次世界大戦の中、ついに太平洋戦争が勃発。軍需品の生産と無関係であったじゅうたん製造は、事業中止を余儀なくされます。

  • [ 日本の緞通確立へ ]

    海外の模倣品ではない、日本の風土、感性と美意識、暮らしを反映したじゅうたんのデザインを模索し、当時の芸術家たちからもインスピレーションを得ながら、様々な図案開発に取り組みます。

  • [ 今も大切に受け継がれる図案 ]

    月明かりに照らされ、春の夜におぼろげに浮かぶ桜を表現した手織緞通「桜花図」。創業期より、大切に受け継がれてきた図案のひとつです。

第3章:再出発

戦後の困難を乗り越える

1945年〜1948年

葛の根を原料とし、作り上げた糸
葛の根で織り上げたじゅうたん

1945(昭和20)年8月、終戦を迎えた日本。創業者・渡辺順之助は、地域振興、郷土発展の理想にあらためて立ち返り、各地に散っていた同志の技術者たちを迎え集め、じゅうたん製造業を再開します。しかし、時代は終戦直後の米軍占領下、物資が最も欠乏した時期です。原料となる羊毛どころから、綿屑ですら手に入らない状況が続きます。

困難な時代環境の中、知恵と工夫を絞り出し発見したのが、「葛の木」の根を原料とし、糸にする方法です。足踏紡績機を活用して糸状にし、「アニプラントヤーン」と名付けた素材を用いて、手織緞通を製作。日比谷に進駐した、GHQ のマッカーサー司令室等に納入します。

また、軍服を裁断、反毛して糸へと紡ぎ、原料を工面。この糸を素材に用いた手織緞通は、帝国ホテルへ200枚以上、延べ1,400平米以上が納められました。これら終戦直後の苦境を乗り越えたものづくりは、実績と技術を通産省(当時商工省)から評価され、特別に輸入羊毛が割り当てられます。新社名「オリエンタルカーペット」を掲げ、事業が軌道に乗り始めます。

  • [ 保存される、全ての製作記録 ]

    戦後以降、全ての製作記録は製造台帳に記され、保管されています。製造台帳の第1号には、葛の木の根で織ったじゅうたんや、200枚を超える帝国ホテルへの製作記録が記されています。

  • [ 海外からの視察風景 ]

    戦後復興の中、実績と技術が認められるようになると、通産省(当時商工省)やGHQを介して、海外の要人たちが山辺町を訪れ、ものづくりを視察するようになります。

第4章:転換期

海を渡る、山形緞通

1948年〜1965年

対米輸出第1号のじゅうたんを、貨物列車に積み込む
バチカン宮殿へと納入されたじゅうたん

待望の羊毛(原料)供給を得て、次の目標として定めたのが対米輸出です。国内全体が混乱期にあった中、全社一丸となってデザイン、染色、織り、仕上げの技術向上に専念。1948(昭和23)年には、海外輸出第1号となるじゅうたんが、山辺駅から貨物列車に乗って、ハワイへ向けて出荷されます。小さな山辺町で生まれた山形緞通が、はじめて海を渡り世界と繋がった、歴史的な瞬間でした。

この出来事を機に、海外輸出と生産が増加。最盛期には、工房生産量の80 % 以上を占めるようになります。特にアメリカ市場では、その品質が高く評価され、「Fuji Imperial Rug」の商標名と共に、最高級のじゅうたんとして認知されるようになりました。1955年には、東京事務所を開設し、事業を拡大すると共に、国内外からの需要に幅広く応えていきます。

昭和35年(1960年)には、昭和天皇・香淳皇后より工房のご視察を賜り、地域に希望と活気をもたらします。特異なじゅうたん製造事業として注目され、多くの美術家、芸術家らが山辺町まで足を運び、工房を訪れるようになります。1964年には、バチカン宮殿法皇謁見の間に手織緞通を製作納入。山形緞通のものづくりが、世界に認められた出来事でした。

  • [ デザイン室の作業風景 ]

    社内にじゅうたんの図案制作を専門とするデザイン室が設けられ、お客様の様々な依頼に対して、デザインの視点からも対応、提案していくようになります。

  • [ 羊毛の研究 ]

    原料となる羊毛に対して、最上級の品質を目指し、工房で独自の研究を進めます。じゅうたんに最適な羊毛種の厳選、製品ごとの羊毛ブレンド等、当時の研究は、今も山形緞通のものづくりに深く息づいています。

第5章:拡大期

住まい、建築文化の発展と共に

1965年〜1990年

多種多様な依頼に答えるデザイン室
1965年から導入したハンドタフテッド工法

1965(昭和40)年より、ハンドタフテッドの工法を用いた「手刺緞通」を導入。手織緞通と同等の品質、工芸的な風合を有しながら、製作コストと時間の短縮に成功。日本の住まい、公共建築の発展に伴う多種多様なオーダーに、近代的生産体制を持って応えるようになります。また、対米輸出における輸入制限運動の発生により、海外輸出が厳しい局面に達したことを受け、生産を国内向けに転換、集中させます。

1968年には、皇居新宮殿「長和殿」へ手織緞通を納入する名誉を賜る一方、高い工芸性と実用における品質の共存が、多くの建築家やデザイナーの関心を集めるようになります。吉田五十八、村野藤吾、吉村順三、谷口吉郎、丹下健三、剣持勇、渡辺力ら、日本の建築、デザイン、住まいの発展に多大なる影響を与えた人物たちの設計の下、個人住宅から別荘、集合住宅や宿泊施設、大型公共建築等まで、じゅうたんを納めました。

ものづくりの発展により、創業者の願いであった地域振興は、じゅうたん製造業が山辺町に確たる地域産業として根付いた風景へと結実します。全国各地、市井の暮らしが営まれる様々な空間で、その足もとを人知れず山形緞通が支えるようになります。

  • [ 建築家やデザイナーとの協業 ]

    1965年、大阪ロイヤルホテル(現リーガロイヤルホテル)竣工時に納入した、建築家・吉田五十八氏のデザインによる手織緞通「幽蘭」の仕上げ風景。ものづくりの技術と建築文化の発展に伴い、様々な建築家、デザイナーとの協業が進みます。

  • [ 手刺緞通の導入、技術発展 ]

    1965年にハンドタフテッド工法による手刺緞通の導入、自社での技術発展によって、生産量と時間効率を高め、工芸的な品質を維持しながら、さらに幅広い依頼に応えられるようになりました。現在、生産量の中心は、手刺緞通が担っています。

第6章:変革期 – 現在

暮らしの風景として

1990年〜現在

創業時より変わらない、手織緞通を織る風景
今日も1日数センチずつ、織り続ける

平成に突入する1990年前後から、社会環境の変化に伴い、工房での生産も多様化します。従来の住宅や宿泊施設、公共建築へのじゅうたんの納入に加えて、手織緞通・手刺緞通の技術を活かした、美術織物としての緞帳やタペストリー製作、文化財復元や新調のご用命をいただくようになりました。また、プロダクトデザイナーやグラフィックデザイナー、建築家との共同製品開発もスタートします。

2000年代後半から、大型建築の需要が陰りを見せる中、市井の暮らしのためのものづくりへと原点回帰。2013年には、「山形緞通」という名称、意義、製品ラインナップをあらためて整理編集し、オリエンタルカーペットの自社ブランドとして公開いたしました。

国内では、2015年にグッドデザイン賞を受賞。また、近年は、ドイツ・フランクフルト、フランス・パリで開催される国際見本市への出展等、海外への積極展開も継続しています。2020年には、念願であった東京ショールームを東神田にオープン。山辺町の工房には、年間2,000人を超えるお客様が、工房景観とものづくりの体験にいらしています

令和の時代、大きな変化の渦中にある現代においても、創業からの理念を絶やさず、世界に誇れる最高品質のじゅうたんを、山辺の地の手仕事によって創り続け、地域社会と文化の発展に寄与する。そして、人々の暮らしを足もとから支え、毎日の喜びを紡いでゆく。この切なる想いを胸に秘め、今日もものづくりに励んでいます。

  • [ 文化財の復元新調 ]

    京都祇園祭の山鉾を飾る懸装品の、手織緞通による復刻新調時の製作風景。昭和58年に初めてご依頼をいただいてから、これまで累計20件ほど、復元、復刻新調を手掛けています。

  • [ 東京ショールーム、オープン ]

    2020年、東京・東神田「アガタ竹澤ビル」1階に、トラフ建築設計事務所の改修設計の下、念願の東京ショールームをオープンしました。